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漆器は「ジャパン-japan-」と呼ばれる、日本の代表的工芸品です。
日本独自の美しい蒔絵(漆で描いた文様に金粉を蒔き付ける技法)を施した漆器が世界の人々に広く知られたことがうかがわれます。
我国における漆工は縄文時代にはすでに始まっていました。奈良時代には、末金鏤(まっきんる:蒔絵のもととなる技法)が生まれ、
平安遷都を契機に京都で漆工が発展を遂げていきました。
■平安時代・・・宮廷内では漆器の使用が日常化
都には漆部司が置かれ、朝廷直轄の工房で漆工が始まります。すでに宮廷内でも漆工の使用が日常化していました。
遣唐使の廃止以降は日本独自の意匠・技法が確立しはじめ、当時の需要家であった貴族階級は漆工を保護し、
自らの好みに合ったものを作らせるようになりました。
こうして京都は漆工の中心地となりました。
■鎌倉時代〜室町時代・・・現在に伝わる技法が確立
鎌倉時代には平蒔絵(ひらまきえ)、高蒔絵(たかまきえ)、研出蒔絵(とぎだしまきえ)といった技法が確立してきます。
室町時代になると足利義政のもとで幸阿弥道長、五十嵐信斎といった名工が活躍し、
後継者たちは幸阿弥派、五十嵐派として江戸時代まで幕府の御用を勤め、素晴らしい作品を残しています。
この頃には肉合蒔絵(ししあいまきえ)等の新たな技法も生まれています。
■安土桃山時代・・・海を渡って海外へ
茶の湯が確立していくにつれ、村田珠光に棗をおさめた羽田五郎、武野紹鴎の塗師
篠井秀次、千利休の棗塗師 盛阿弥紹甫という
名工が生まれました。 また、豊臣秀吉の菩堤を弔って建てられた高台寺に残る数々の蒔絵は高台寺蒔絵と呼ばれています。
この頃、南蛮文化が日本に入り、「南蛮漆芸」と呼ばれた欧風のモチーフの作品も多く作られ、海を渡って海外の人々にもたらされました。
漆器の輸出は鎖国後もオランダ人によって続けられました。
■江戸時代・・・漆器の産地が全国各地に生まれる
舟橋蒔絵硯箱の作者 本阿弥光悦、住之江蒔絵硯箱、八ツ橋蒔絵硯箱の作者尾形光琳は斬新な感覚を表現した作品を残し、
後世に大きな影響を与えました。茶道の千家十職として漆器を専門としていた中村宗哲、
中国より来朝し一閑張りの技法を始めた飛来一閑も後に千家十職となり現代に至っています。
江戸の世が安定してくると、幕府・諸大名が多くの蒔絵師・塗師をお抱えとして招き、全国で漆器の産地が生まれてきました。
■明治以降・・・苦難を乗りこえ現代につながる
明治維新により京漆器の業界は、朝廷、大名などの主要な需要家を失い、厳しい局面に立たされました。
名工の家が途絶えたり、名品が海外に流出することにもなりました。
そうした中でも明治五年の「京都博覧会」、明治六年の「ウィーン万国博」への京漆器の出品は業界振興への刺激となりました。
第二次世界大戦後の原料不足など大きな波はありましたが、今なお京漆器は雅なもの、
また 「わび」「さび」を表現するものといった日本の漆工の全てを表現し続けています。
京漆器は平安建都以来、日本の漆工の中心をなしています。
朝廷、貴族、幕府、大名、豪商、財閥などそれぞれの大需要家の好みの品をつくり続け、また、宗教の中心地でもあることから、
神社、寺院の用に応え、 文化においても茶道、華道などの家元のお好みの品をつくり続けてきたのが京の匠です。
それだけではなく、後の世に大きな影響を与える名工も数多く輩出してきました。
品質に対するこだわり、完成度に対する厳しい目は千年を超えて培われたものです。
器物の形が納得できるものになるまで塗り重ね、研ぎ据え、その上に日本最高峰の技術を持つ匠が加飾していくのが京漆器です。
そして、貴族の雅、武家の豪放さ、「わび」「さび」を表現する奥深さ、新しい潮流を生む創意、
そのすべてを内包しているのが京漆器なのです。